《出会いはいつもさりげない》徒然草-4

タイトルがいい、「青春」の「輝き」だから。老年のとか、晩年の輝きというのはない。
青春は光と影がある。晩年は何があるだろう。
輝くのは、肌ではなく、目だ。人は目を見て、輝いているとか、死んでいるとか言う。何を根拠に人はその言葉を吐くのか。人は認識のためだけに視覚を使っているのではなく、見えたもの以上の何かを見ている。それは、人には第二の目である感性があるからだ。
それは、体全体で感じることの出来る何かを観ている。それを人はオーラと良く言う。オーラが何か判らないが、人は見た目以上に、雰囲気とか、その場の空気と言ったように、視覚情報以外の情報を得ている。それが感性だ。
そして、その外に、人は気迫という、何かそれ以上の心以外の何かをみようとする。いや感じてしまうのである。人と人との出会いの時にそれが顕著になる。vivid感じるそれを、一目惚れとか、運命の出会いとか、赤い糸で結ばれていたと言った必然や、宿命をそこに見出す。果ては魂まで持ち出し、前世の約束とか、生まれ変わりとか、時空を超えた四次元の世界まで行ってしまう。
唯の偶然が必然に変わる瞬間に、人は何度か出会う。
私がJ.ラカンと出会ったのも、そんなありふれた日常の一コマだった。さりげなく、上司の机の上にあった『精神の科学』(岩波書店)の一冊だった。その本の中でラカンを知った。一行も解らないその文章が、私を虜にした。
全くの無知な自分の青春の影の部分の私と重なった。
精神分析家 蘇廻成輪